目指せ! 洋書多読100冊!!

高いお金をかけなくても、無料で英語学習に効果的と言われる多読も音声付きのテキスト(小説)はたくさんあります。ネイティヴの子供たちが親しんでいる児童小説などを通して自然な形で語学を習得することができますので、ぜひ、お試しください。

電車内の通勤時間に!お昼の休憩時間に!そんな隙間時間で英語学習が可能なように、できるだけスマホで見やすいサイトを心がけています。特に、カラフル対訳は私が考案した(というほど大したものではありませんが)もので、洋書を辞書なしで、直観的に理解することができるように工夫してみました。

今までの対訳本が理解しにくいと感じている方には最適です。

音声もありますからリスニングの学習もできます。ただし、あくまでも素人の個人サイトですので誤訳の可能性もありますのでその点はご容赦ください。

まだ、作品が少ないですが、コツコツと増やしていきたいと思います。

※個人サイトです。更新が遅いかもしれませんがご容赦ください

英語力爆伸び! の秘密

英語は耳からという神話

『英語は耳から』という神話がありますが、これははっきり言って間違いではないでしょうか。この神話を信じている英語学習者のほとんどの方が無視しているのは、英語(あるいはすべての言葉)は、話すよりも聞きとる方がはるかに難しいという事実です。

テープ起こし(文字起こし)というアルバイトがありますが、この仕事をしたことがある人なら「言葉を正確に聞き取る」ことは、たとえそれが日本語であったとしても非常に難しいことに同意してもらえるはずです。初めて聞く名前や地名は日本語であっても聞き取れないのが普通です。

日本語であっても、知らない人名や地名は文字で確認するまでは正確に認識することは難しいものです。ましてや外国語をBGMのように何度聞いたとしても、普通の人間にはそれを再現することは到底できないでしょう。そもそもそれは『音』であって『言葉』ではないからです。

私は『音』と『言葉』との違いは、簡単に言えばアナログ的なものかデジタル的なものかで区別できるのではないかと考えています。どういうことかと言えば、人間の言葉は環境音のようなアナログ的な(曖昧さを許す)音の情報の連続を、 デジタル的に量子化し、近似値として表現しています。そうすることによって、文字に割り当て、視覚を可能にすると同時に、音を限定しているという意味です。

『アナログ=analog』の派生語の『analogy』の意味が『類推』であり、デジタルの語源が数を数える時に指を使っていたことからバラバラの数(=離散した数)を意味することからも、それは明らかなはずです。人間の言葉は文字と密接に繋がっているのです。

私達が学ぶ、ほとんどすべての国の言葉には、文字があり、言語は文字との組み合わせによって発音されます。決して、自然音を発しているわけではありません。

人間の言葉は、アナログ的な(曖昧さを許す)自然音を『分かつ』ことによって一般化(文字化)しています。知っておくべきことは、音よりも文字を『分かつ』ことのほうがはるかに簡単だということです。

外国語習得は文字から入ることの方が近道

聞こえてくる音と文字を逐一対応させて覚えるのが最も効果的

日本語にしても英語にしても、人間が文字を通して表現できる発音は自然音に比べ、とても限られています。

自然のアナログ的な(曖昧さを許す)音声だけでは、よほど音感の優れた人でない限り、耳から入って来る情報からだけで、正確に切り分ける=『分かつ』ことは困難です。

児童小説などによく登場する、正規の教育を受けていない下働きの使用人たちは、ブロークンな英語を話しますが、これは、彼らが耳からのみ言葉を学び、本を読む教育を受けていないことに起因します。

『英語は耳から』という発想自体は間違っていなくても、英語も所詮は文字の発音によって一般化(定式化)しているという前提を無視することはできません。

耳から…の学習だけで完璧な発音になるのなら、ネイティブにもかかわらずブロークンな英語を話す人たちの現実を説明できなくなってしまいます。

また、言語の習得は音楽的才能のような特殊能力を必要とするものではありません。言語は曖昧な環境音などの情報を、ごく簡単に一般化し、情報を共有するために作られたものです。

たとえば、日本人であれば誰でもウグイスの鳴き声が「ホーホケキョ」と聞こえ、ツクツクボーシの鳴き声は「ツクツクボーシ」と聞こえてしまい、犬の鳴き声は「ワンワン」と聞こえます。

これは、鳥や虫、犬の鳴き声を脳がそのように変換し、日本語で『分かつ』ているからだと言えます。つまり、音声を脳内で日本語に変換しているのです。日本人以外の外国人がどんなに耳を澄ませてもウグイスの鳴き声は決して「ホーホケキョ」とは聞こえないはずです。それはウグイスの鳴き声を「ホーホケキョ」という文字に対応するようには教わっていないからです。

『英語は耳から…』と力説される方はこの点を理解できていない方が多いように感じます。つまり、外国語が聞き取れないのは耳の感度のせいだと勘違いしているような気がするのです。先ほどの例で言えば実際のウグイスの鳴き声は「ホーホケキョ」ではないのですから、耳の感度が良ければ良いほど聞き取りができなくなるということです。

人間の言葉は、自然の音声を正確に再現することを目的として作られたものではないですし、ネィティブだからといって、英語を正確に聞き取っているわけでもなく、初めて聞く言葉はやはり聞き取れないはずです。

耳から入ってくる音を、文字に対応する母国語(言葉)に離散化させることによって言語として受け取り、発声するときはその逆という言語の習得過程(文字と音声の双方向性)は日本語も英語も変わりません。

私が不思議に感じるのは、英語の聞き取りを上達させるには「聞こえてくる音と文字を逐一対応させて覚えるのが最も効果的で簡単な方法」という、至極当然な発想がなぜだか無視され、大量に聞き流したり、音声を早くしたりするようなことばかりが流行っていることです。まったく、不思議です。赤ん坊が言葉を覚えるときだってそんな覚え方はしないはずなのに…

カラフル対訳の解説

 カラフル対訳はこんな感じです。↓↓↓

I suppose, and described as lonely, had chosen it from the others for his place of residence.[居住地]

たぶん、ぽつんと一軒離れたところにあると説明されて、数あるなかからやつの宿として選んだというわけらしい。

色分けされた文章は理解しやすい

カラフル対訳はもちろん、単なる私の思いつきで作ったものにすぎませんが、その思いつきには多少なりとも根拠があります。

というのは、『色』はこの世界の存在や現象を人間に理解させてくれます。逆に言えば人間は世界を色分けしないで把握することはできません。たとえば虹は太陽光の反射現象にすぎませんが、知覚できるのは色分けされているからです。同じように、私たちはこの世界に光を当て(観測し)色分けすることによって理解しています。

理解するとは、理(ことわり)を解(分解)することです。分解し、理解したことを『分かった』と表現します。 英語学習においては、先人が切り分け『分かつ』てきた遺産を私たちは、『単語』『熟語』『文法』などと呼んでいるわけです。

同じように、色分けすることによって難解な英文も理解しやすくすることができます。『分かち=色分け』することによって、私たちは靄のかかった対象物をはっきりと知ることができるのです。これが、カラフル対訳で色分けをしている理由です。プログラミング言語でよく使われるシンタックスハイライト(構文強調)と同じで視覚的な区別が容易になり理解しやすくなります。

新しい学習には意識的努力が必要

色分けだけではなく、『間』についても少し説明したいと思います。カラフル対訳の動画には必ず『間=空白の時間』がありますが、これは、無意識的・機械的な意識状態から思考を呼び起こすために絶対に必要な時間だと考えているからです。なぜなら、本来「聞き流しながら」「音読をしながら」同時に思考することなど人間にはできないからです。

人は一度に複数の行動をこなしたり思考したりすることは難しいものです。不可能と言ってもいいかもしれません。日常生活において私たちが複数の事ができるのは、既に熟練して半ば無意識で機械的に行うことができる行動が重なりあっているからです。

人は、朝起きて夜寝るまで多くの無意識的・機械的な行動を繰り返していて、何も考えずに日常行為をこなしています。ご飯を食べたり、歩いたりの手の振り方や足の出し方をいちいち意識して行動したりはしていません。ですが、このような日常の繰り返しのなかでは、なにか新しい技術を習得することはできません。

何かを習得するには意識的な努力が必要です。軍隊的な歩行法を思い浮かべてください。あのような特殊な歩行法は意識的に学ぼうとしなければ決して身につかないものであることがすぐに理解できるはずです。型の習得のためには必ず意識的努力が必要となってきます。

意識的努力とは言い換えれば、意識の光の焦点を思考に当てるようなものです。車を運転される方なら中心視と周辺視の違いを理解されていると思います。中心視野は解像度が高く細かな違いを判別する事ができますが、周辺視野は解像度が低くなり、大まかな動きの判別しかできません。これが、運転手のほうが助手席に座っているだけの人より道を明確に覚えている主な理由です。

同じように、情報が思考にまで届かなければ、どんなに多くの情報を取り入れていても、それは観て(観察して)いないのと同じです。聞き流しや多読といった学習方法は、助手席にただ座っているだけの搭乗者と同じで、事物を風景のように惰性として見ているにすぎず、新しい技術を習得するには向いていません。

人は無意識のなかでほとんどすべての日常行動ができる。だが、それは生きているとは、言わない。

たとえば、何気なく、歩行をしているときでも、我々は外界を見ることができ、音を聞くことができています。これは、意識的な努力をしなくても、誰でも、普通に日常的に行っていることです。意識的な努力をしなくても、見ることも、聞くことも、匂いを嗅ぐことも、呼吸をすることも、心臓を動かすこともできています。

すべて、無意識に…

しかし、これについては20世紀最大のオカルティストと呼ばれるゲオルギイ・グルジエフが「人はそのありふれた状態においては条件付けに支配された機械のようである」と表現しています。

「人にはなにもできない。[……]人は機械である。そのふるまい、言葉、思い、気持ち、信念、意見、習慣はみな、外部からの影響や印象がもたらした結果にすぎない。自分からはひとつの考えも生み出せず、ひとつの行動も起こせない。言うこと、思うこと、感じること、すべてがただ起きる。自分からはなにも見つけられず、なにも生み出せない。すべてはただ起きる。」
グルジェフの言葉より引用

人は無意識のなかでほとんどすべての日常行動ができます。ですが、意識的な努力なしには何か新しいことを学ぶことは不可能なのです。

聞き流し系の英語学習法の欠点

聞き流しの学習法は『分かつ』ていない

『分かつ』という技術は人類の叡智の結晶と言えるかもしれません。

「眺めるだけ…」「聞き流すだけ…」という、受動的な方法では、『分かつ』ことはできません。ただ読むだけ、ただ聞くだけで、語学がマスターできるのであれば、速読という常人の数十倍以上のスピードで本を読むことができる人たちは、簡単に数か国語をマスターしていてもよいはずです。

ですが本を漠然と眺めるような読み方、風景を眺めるように文字を眺めているだけでは語学をマスターすることは難しいでしょう。『分かつ』ていないからです。速読や聞き流しが有効なのは、その言語を熟知し、内容も理解が追いついていることが前提条件と言えます。

繰り返しの学習法は基本的には、新しい事を覚えるためにではなく、既に知っていることを忘れないようにするため、あるいは流暢にするためにおこなうものです。

「速く読むことができるのは、すでに知っている情報だけ」です。

多読(速読)や聞き流しだけで、英語の上達を期待するのは、ちょうど、意識的に努力をすることなく、ただ漠然と毎日歩いているだけで、いつの間にかスーパーモデルのような歩き方になれると考えることと似ているかもしれません。

多読の功罪

聞き流しと同様に量をこなすことによって英語を上達させようとする学習法に多読があります。

「知らない単語があっても、辞書は使わずに…」

「意味が分からなくても、辞書を引かずに飛ばして読んでいくと、ある日突然理解できる瞬間がやって来る…」

多読の効用を説明する時、こういった意見はよく見聞きします。しかし、これらは程度の問題だと思います。あまり字義通りに「量さえこなせば意味は自然に分かるようになる」と受け取ってしまうとかえって英語の上達には支障があるように思えます。おそらく何百回読み聞きしても意味を捉えることのできない単語は多く残ってしまうはずです。

もし、それでも回数さえこなせば「分かるようになる」と主張されるのであれば、その方はきっとAIですら解読不能な「ボイニッチ手稿」ですら100回読めば理解できる大天才なのでしょう。 笑

聞き流しの学習法には適度な『間』が抜けている

新しいことを学習をする上では意識的努力が大切なのですが、この意識的努力には適当な『間』が必要です。

営業の世界に契約率99%という、ある伝説的なセールスマンがおられます。その方の極意はひと言でいえば「いらざる間(ま)を空けない」ことだそうです。相手に「考える間」を与えず、矢継ぎ早に質問(誘導)を続ければ、客は反撃するチャンスを失い、やがて自分の頭で考え抵抗することを放棄するようになり、セールスマンの意のままに誘導することができるのです。

このように、人間は「他人の話を聞いてるだけの時」、思考することが難しくなります。一生懸命に相手の話に耳を傾ければ傾けるほど、自分で考えることができなくなります。

また、テレビを見すぎるとバカになるという話もよく聞くかと思います。何故でしょう? テレビには、空白の時間などなく、立ち止まって、内容の正否を判断するような時間がありません。与えられた情報に対して受け入れるだけになってしまい、考える力が落ちてしまいます。

テレビに対して無防備でいると特定の思想や情報を無条件に刷り込まれ、それを批判することができなくなってしまいます。このように、『間』を奪われてしまうと人間は思考することができなくなってしまうのです。

室町時代初期の猿楽師 世阿弥も、「芸と芸との間の『何もしない間(ま)』を至芸とした」と云われています。 間抜け、間が悪い、間違い…。 何事も「空白」は大事です。

『間』を分かつことによって初心者でも難解な英文が理解できるようになります。よくネイティブの発音は早すぎるからと、リスニング用の教材でスピードをスローにしているものを見かけますが、『空白の時間』であるほうがより効果的です。

残念なことに、聞き流し式の学習法にはこの肝心の『間』が抜けています。特に会話内容が理解できていないときなどは思考ストップの傾向が顕著になり、非常に非効率な(間抜けな)学習法と言えます。

ところで、『分かつ』てない=分からない文章を読むのは、つまらないものですが、この『つまらない』は漢字で書くと『詰まらない』と書きます。つまり、『とどまる』ことがないという意味です。立ち止まることができず右から左へと言葉が流れてしまって手元にとどめておくことができない状態です。

『つまるところ…』、『要するに』、『結局のところ』といった結論がなく「面白くない」「退屈な」という意味です。「立て板に水」ではつまらなく、話の内容が頭に残りません。これは、聞き流しがいかに無意味な学習方法かということを、昔の人もよく知っていたという証左ではないでしょうか。

聞き流しによる学習は、『間抜け』で、『詰まらない』 それは…『分かつ』ていないから。

一時停止(空白の時間の)有効性の考察

日本の鉄道では、職員が電車発車時に毎回行っている、「指差し呼称」というものがあります。「指差し呼称」「指差し確認」は英語で「Pointing and Calling」と訳されています。

一見馬鹿らしく映るこの「指差し確認」ですが、このことによって、確認の精度を向上させ、作業への意識を高めてミスを減らす有効な手段と云われています。

刻々と変化する都会の駅における膨大な情報の波のなかでは、漫然と眺めているだけでは危険を回避することはできません。

車掌はこの「指差し確認」によって膨大な情報を、一旦シャットダウンし、目を向けた場所にだけ意識を集中させることによって微妙な危険を察知します。つまり、

流れを『分かつ=止める』ことによって正確な確認をすることができるのです。

このように、動きを止め、惰性の流れを断ち切り、意識を集中させることは小さなミスをなくすときに大変有効です。

さらに、動きをいったん止め、意識を集中させることによる効果は、単にミスを少なくするだけではなく、古い癖を矯正するときや、新しい技術を習得するときにこそ大きな成果を上げます。

カラフル対訳は洋書を楽しむための非常に有効なツールになることでしょう。