「遠くから聞こえる笛の音が誰のものか『こころもとなく』、確かめずにはいられないように、この言葉ははっきりしないものへの焦燥や不安を表します」
📖 意味と用法
こころもとなし は、ク活用の形容詞で、「じれったい」「不安だ」「はっきりしない」といった、心が落ち着かない状態を表す重要な古文単語です。多くの場合、対象の状況が不明確であることに対するもどかしさや心配の感情を伴います。
- 【じれったい・待ち遠しい】じれったい、待ち遠しい、気がかりだ、早く知りたい(見たい・聞きたい): 物事の成り行きや結果がどうなるか分からず、早く知りたいとじりじりする気持ちを表します。手紙の返事を待つ場合などによく使われます。
- 【不安・心細い】不安だ、心細い、頼りない、心配だ: 先行きが見えず、心が落ち着かない、頼るものがないと感じるさまを表します。暗い夜道や未知の場所、人の安否などが対象となります。
- 【不鮮明・ぼんやり】はっきりしない、ぼんやりしている、かすかだ: 光や音、記憶などが明確でなく、曖昧な状態を指します。
じれったさ、不安、不確かさ、待ち遠しさがキーワードです。「心許なし」と書き、「心のよりどころがない」という意味から派生したと考えると理解しやすいでしょう。
じれったい・待ち遠しい の例
返事もせで、いたうこころもとなきを。(源氏物語・末摘花)
(返事もしないで、(こちらとしては)ひどくじれったいのだが。)
不安・心細い の例
暗き道はいとこころもなし。(枕草子)
(暗い道はたいそう不安である。)
はっきりしない・ぼんやり の例
月かげいとこころもとなく見ゆる。(蜻蛉日記)
(月光がたいそうぼんやりと見える。)
🕰️ 語源と歴史
「こころもとなし」は、「心許なし」と表記されることが多く、「心許(こころもと)」に打消の助動詞「なし」が付いた形です。「心許」は「心のありか」「心の落ち着くところ」「頼りとするもの」といった意味を持ちます。
したがって、「心許なし」は「心の置き所がない」「心が落ち着かない」というのが元々の意味です。そこから、物事の状況や成り行きがはっきりせず、心がそちらに引かれるものの確かめようがなくてじれったい気持ちや、先が見えなくて不安な気持ちを表すようになりました。
平安時代の物語文学、特に『源氏物語』や『枕草子』などで、登場人物の微妙な心理描写に頻繁に用いられました。対象が見えない、聞こえない、あるいは遠くにあって確かめられないといった状況で、それを知りたいと願う気持ちを表す際によく使われます。
📝 活用形と派生語
「こころもとなし」の活用(形容詞ク活用)
活用形 | 語形 | 接続 |
---|---|---|
未然形 | こころもとなく | (あら)ず |
連用形 | こころもとなく | て、なり、他の用言 |
連用形(音便) | こころもとなう | て、ござる |
終止形 | こころもとなし | 言い切り |
連体形 | こころもとなき | 体言、こと、の |
已然形 | こころもとなけれ | ば、ども |
命令形 | (こころもとなくあれ) | (まれ) |
※連用形「こころもとなう」はウ音便化した形です。
派生語
- こころもとながる (動詞ラ行四段活用) – じれったく思う、待ち遠しく思う、不安に思う
日の暮るるをこころもとながりて。(源氏物語)
(日が暮れるのを待ち遠しく思って。) - こころもとなさ (名詞) – じれったさ、待ち遠しさ、不安さ、はっきりしないこと
そのこころもとなさに胸さわぐ。(枕草子)
(そのじれったさに胸が騒ぐ。)
🔄 類義語
じれったい・待ち遠しい・気がかりだ
不安だ・心細い・頼りない
はっきりしない・ぼんやりしている
※「おぼつかなし」は「こころもとなし」と意味が非常に近く、多くの文脈で言い換えが可能です。「ゆかし」は知りたい・見たいという積極的な気持ちが強いです。
💬 現代語との関連
「こころもとなし」に直接一対一で対応する現代語は少ないですが、意味合いとしては以下の言葉が近いです。
現代語の「心もとない」は、古語の「頼りない」「不安だ」という意味を引き継いでいますが、古語の「じれったい」という意味は薄れています。
🗣️ 実践的な例文(古文)
いかで月の出づるをこころもとなく待ち居たり。(更級日記)
【訳】なんとかして月が出るのを待ち遠しく思って待っていた。
風の音、人の気配もせず、いとこころもとなき夜なり。(源氏物語・夕顔)
【訳】風の音も人の気配もせず、たいそう不安な(心細い)夜である。
咲き乱れたる中にも、なほ名も知らぬ草木の、かれこれと見ゆるぞこころもとなき。(徒然草)
【訳】咲き乱れている中でも、やはり名前も知らない草木が、あれこれと(はっきりせず)見えるのが気がかりだ(もっとよく知りたい)。
都の消息こころもとなくて、日を送る心地す。(土佐日記)
【訳】都の便りが待ち遠しくて(気がかりで)、(そのことばかり考えて)日を送る気持ちがする。
船も出ださず、こころもとなき日数を重ぬ。(蜻蛉日記)
【訳】船も出さず、(いつ出発できるか分からず)じれったい(不安な)日数を重ねる。
📝 練習問題
傍線部の「こころもとなし」の現代語訳として最も適切なものを選んでください。
1. 文の返事、遅きをこころもとなく思ふ。
解説:
手紙の返事が遅いのを、早く来ないかとじりじり待っている様子です。「じれったく」または「待ち遠しく」が適切です。
2. 行く末の事なれば、いとどこころもとなし。
解説:
将来のことなので、いっそうどうなるか分からず気がかりだ、という意味です。「不安だ」または「気がかりだ」が適切です。
3. 遠く聞こゆる笛の音、こころもとなけれど、いと哀れなり。
解説:
遠くから聞こえる笛の音が、はっきりとは聞こえないが、たいそうしみじみと趣がある、という意味です。「はっきりしないけれど」が適切です。
4. 親の身にとっては、幼き子の一人旅こそこころもとなけれ。
解説:
親の身にとっては、幼い子供の一人旅は本当に気がかりだ(心配だ)、という意味です。「気がかりだ(心配だ)」または「不安だ」が適切です。
5. 春はまだかと、こころもとなく待ち暮らす。
解説:
春はまだ来ないのかと、待ち遠しく思いながら日を過ごす、という意味です。「待ち遠しく」または「じれったく」が適切です。