「不正を見て『にくし』と感じるように、この言葉は強い不快感を表しますが、時には憎らしいほど見事なものへの感嘆も示します」
📖 意味と用法
にくし は、ク活用の形容詞で、基本的には対象に対する強い不快感や嫌悪感を表しますが、文脈によっては逆説的に「憎らしいほどすばらしい」という感嘆の意味で用いられることもある、多義的な古文単語です。
- 【嫌悪・不快】いやだ、気に食わない、憎らしい: ある対象に対して、生理的または心理的な不快感、反感、嫌悪感を抱くさま。最も基本的な意味。
- 【醜悪・見苦しさ】見苦しい、みっともない、醜い: 外見や言動が劣っていて、見るに堪えない、不快に感じるさま。
- 【逆説的賞賛】(「~もにくし」などの形で)かえってすばらしい、かえって立派だ、憎らしいほど見事だ: あまりにも優れていたり、巧みであったりするために、かえって憎らしく感じるほどだ、という逆説的な褒め言葉。主に連用形「にくく(う)も」や終止形・連体形に「も」を伴う形で見られることが多い。
「にくし」が使われた際には、文脈からそれが直接的な嫌悪感なのか、あるいは裏返しの賞賛なのかを慎重に判断する必要があります。特に③の用法は現代語の「憎い」にも通じる複雑な感情表現です。
嫌悪・不快の例
心のきたなきこそいとにくけれ。(枕草子)
(心が汚いのはたいそういやなものである。)
醜悪・見苦しさの例
顔つきにくく、声かれたる男。(今昔物語集)
(顔つきが見苦しく、声がしゃがれている男。)
逆説的賞賛の例
あまりに才かしこく物したまへば、にくくもありけるかな。(源氏物語)
(あまりに才能が優れていらっしゃるので、かえって憎らしいほどすばらしいことだなあ。)
🕰️ 語源と歴史
「にくし」の語源は、「醜し(みにくし)」の「みに」が取れたもの、あるいは「寝(ね)組む(くむ)」の意から転じ、男女の仲がうまくいかないことへの不快感を表したという説などがありますが、定説はありません。「憎悪」の「憎」の字を当てることから、強い否定的な感情が根底にあると考えられます。
古くは「いやだ」「気に食わない」という直接的な嫌悪感を表す語として用いられました。平安時代中期以降、『枕草子』や『源氏物語』などでは、対象があまりに優れていて、自分の手に負えない、あるいは嫉妬心すら覚えるといった複雑な感情から、逆説的に「憎らしいほどすばらしい」と感嘆する用法が見られるようになります。
📝 活用形と派生語
「にくし」の活用(形容詞ク活用)
活用形 | 語形 | 接続 |
---|---|---|
未然形 | にくから / にくくあら | ず |
連用形 | にくく / にくう | て、なり、他の用言 |
終止形 | にくし | 言い切り |
連体形 | にくき | 体言、こと、の |
已然形 | にくけれ | ば、ども |
命令形 | にくかれ | (会話などで稀) |
※連用形「にくう」はウ音便化した形です。
派生語
- にくさ (名詞) – いやなこと、憎らしさ、醜さ
物のにくさを知らぬ心。(徒然草)
(物事のいやな点を理解しない心。) - にくげなり (形容動詞ナリ活用) – いやそうな様子だ、憎らしげだ、醜そうだ
にくげなる顔つき。(源氏物語)
(憎らしげな顔つき。) - こちにくし (形容詞ク活用) – (「こち(事)」+「にくし」) 大げさで気に食わない、無骨でいやだ
🔄 類義語
いやだ・気に食わない
見苦しい・みっともない
(逆説的)すばらしい・立派だ
※「うし」はつらい、いやだ、「こころづきなし」は気に食わない、「めざまし」は心外なほどすばらしい/ひどい、などニュアンスが異なります。
↔️ 反対の概念
「にくし」が不快感や嫌悪感を表すため、好ましい、心が惹かれる、美しいといった状態が対極にあると考えられます。
🗣️ 実践的な例文(古文)
すべて人のいやしげなるは、いとにくし。(徒然草)
【訳】総じて人が下品なのは、たいそう気に食わない。
翁、顔はにくけれど、心は良かりけり。(宇治拾遺物語)
【訳】翁は、顔は見苦しいけれど、心は善良であった。
早くより上手に出で来にたるほどぞ、にくき。(枕草子)
【訳】若い頃から(何事も)上手でできてしまったことこそ、かえって憎らしいほどすばらしい。
夏の夜の月のころは、さらなり。闇もなほ、蛍多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。かばかりのものやは見ゆる、と思ふもにくし。(枕草子)
【訳】夏の夜の月の頃は言うまでもない。闇夜もやはり、蛍がたくさん飛び交っているの。また、ただ一匹二匹など、かすかに光って行くのも趣がある。雨などが降るのも趣がある。(こんな素晴らしいものが他に見られるだろうか、いや見られない)と思うのも、かえって憎らしいほど趣深い。
その男の振る舞ひ、いとにくく、見る人も目をそむけけり。(大和物語)
【訳】その男の振る舞いは、たいそう見苦しく、見る人も目をそむけた。
📝 練習問題
傍線部の「にくし」の現代語訳として最も適切なものを選んでください。
1. 女のそら寝りしたるにくし。(枕草子)
解説:
女が狸寝入りをしている状況について述べています。これは、相手をごまかそうとする行為であり、話し手にとっては「気に食わない」と感じられるのが自然です。『枕草子』の「にくきもの」の段の一節です。
2. あまりに上手にて、拍子とりたるも、ただ拍子を聞けば、かへりてにくくこそ。(徒然草)
解説:
あまりに上手で、拍子をとっているのも、ただ拍子だけを聞いていると、かえって「にくく」感じるとあります。これは、あまりの巧みさに感嘆し、それが憎らしく感じられるほどのレベルであるという逆説的な賞賛です。
3. 人の物言ふをさへぎりて言ふ、いとにくし。(枕草子)
解説:
人が話しているのを遮って話す行為は、無礼であり不快感を与えるものです。したがって、ここでは「いやだ」「気に食わない」という意味が適切です。『枕草子』の「にくきもの」の段の一節です。
4. その人の有様、いとにくげにて、人も近寄らざりけり。(今昔物語集)
解説:
「人も近寄らざりけり(人も近寄らなかった)」とあることから、その人の様子が好ましくないものであったことがわかります。「にくげなり」は「いやな感じだ」「醜そうだ」という意味なので、「醜悪な様子で」が適切です。
5. 弓の音、いとにくくもあらぬを聞けば、(源氏物語)
解説:
「にくくもあらず」は、「憎らしいほどすばらしくもない」という意味で、二重否定のような形で「それなりにすばらしい」「なかなかよい」といった肯定的な評価を表します。ここでは弓の音がまずまず良い、といったニュアンスです。