「人の噂も、積もる雪も、飾らぬ歌も、度を越せば『こちたし』。程々の美学とは裏腹に」
📖 意味と用法
こちたし は、ク活用の形容詞で、何かが度を越して多い、または大げさである状態を表す重要な古文単語です。「言痛し」「事痛し」「事甚し」などの漢字が当てられ、それぞれニュアンスが異なります。
- 【言痛し】(言葉や噂などが) うるさい、やかましい、大げさだ、評判が高い、口数が多い:
人の言葉や噂が多すぎて煩わしい、または評判が高くて面倒な状況を表します。「言(こと)」が「甚(いた)し(程度がはなはだしい)」と解釈されます。例:人の言ひ散らすもこちたく、憚り多くて、(源氏物語)
(人が言いふらすのも大げさで、気がねが多くて、) - 【事痛し・事甚し】(物事の程度や量が) 甚だしい、非常に多い、大げさだ、仰々しい:
物事の規模や量が普通以上に大きい、または様子が大げさであることを指します。「事(こと)」が「甚(いた)し」と解釈されます。例:露けさもこちたくおぼえ給へば、(源氏物語)
(露の多さもたいそうひどくお感じになるので、) - 【主に和歌の評価などで】(表現が) 無骨だ、無風流だ、ごつごつしている、洗練されていない:
言葉遣いや表現がストレートすぎたり、飾り気がなかったりして、かえって風情がない、洗練されていないさまを評する際に使われます。例:ただ言葉のこちたきをぞ咎むめる。(古今和歌集序)
(ただ言葉が無骨なのを通例の欠点としているようだ。)
「こちたし」という言葉に接したら、何が「こちたし」のか(言葉か、物事か、表現か)、そしてそれがどのようなニュアンス(うるさい、多い、無骨など)で使われているかを文脈から判断する必要があります。
① (言)うるさい・仰々しい の例
こちたき御けしきにて、物もきこえ給はず。(源氏物語)
(仰々しい(=威圧的でうるさいほどの)ご様子で、何もおっしゃらない。)
② (事)甚だしい・多い の例
雪こちたく降りて、道もなし。(枕草子 – 架空)
(雪がたいそう多く降って、道も見えない。)
③ (表現が)無骨だ の例
この歌は、詞はこちたけれど、心はあはれなり。(古今和歌集仮名序の解釈など)
(この歌は、言葉遣いは無骨だけれども、内容はしみじみと趣深い。)
🕰️ 語源と歴史
「こちたし」の語源は、「言(こと)」または「事(こと)」に「甚(いた)し(程度がはなはだしい、激しい)」が付いたものと考えられています。
「言痛し(こといたし)」が転じたとする説では、言葉数が多すぎて耳に痛い、うるさい、大げさだという意味合いが中心となります。人の噂や評判が広まりすぎて煩わしいというニュアンスもここから派生します。
「事痛し(こといたし)」または「事甚し(こといたし)」が転じたとする説では、物事の程度や量が甚だしい、多すぎるという意味合いが中心です。雪がたくさん降る様子や、物が溢れている様子などを表します。
また、和歌の批評などで使われる「無骨だ」「無風流だ」という意味は、「凝(こり)+甚(いた)し」で、表現が凝り固まっていて風情がない、といった解釈や、「言葉が多すぎて洗練されていない」というニュアンスから発展したと考えられます。いずれにしても、何かが「度を越している」という共通の感覚が根底にあります。
📝 活用形と派生語
「こちたし」の活用(形容詞ク活用)
活用形 | 語幹 | 語形 | 接続 |
---|---|---|---|
未然形 | こちた | く | は、あら(ず) |
連用形 | く / う | て、なり、他の用言 | |
終止形 | こちた | し | 言い切り |
連体形 | き | 体言、こと、の | |
已然形 | けれ | ば、ども | |
命令形 | かれ | (会話などで稀) |
※連用形「こちたう」はウ音便化した形です。
派生語
- こちたう(言痛う・事痛う) (連用形のウ音便)
例:こちたうののしる。(大げさに騒ぎ立てる。)
- こちたげなり (形容動詞ナリ活用) – 仰々しい様子だ、無骨な様子だ、大げさな感じだ
例:こちたげなる飾りつけ。(大げさな感じの飾りつけ。)
- こちたがる (ラ行四段活用動詞) – 大げさな振る舞いをする、仰々しくする
例:いたくこちたがりて物言ふ。(ひどく大げさな態度で物を言う。)
🔄 類義語
うるさい・仰々しい・評判だ
甚だしい・多い
無骨だ・無風流だ
↔️ 反対の概念
「こちたし」が持つ意味合いによって、対照的な言葉が異なります。
「うるさい・仰々しい」に対して:
「甚だしい・多い」に対して:
「無骨だ・無風流だ」に対して:
🗣️ 実践的な例文(古文)
人の口はうるさく、事もこちたければ、忍びて逢ふぞ良き。(源氏物語)
【訳】人の口はうるさく、噂も仰々しい(広まりやすい)ので、人目を忍んで逢うのが良い。
雪のこちたく降り積みたる朝は、いと寒し。(枕草子)
【訳】雪がたいそう多く降り積もった朝は、たいそう寒い。
歌の様は、古めかしく、詞こちたきぞよきと申す人も侍る。(六百番歌合)
【訳】歌の体裁は、古風で、言葉が無骨なのが良いと申す人もおります。
人の言の繁きを憚り、こちたくやあらむと思ひて、(伊勢物語)
【訳】人の噂が盛ん(多い)のを気にして、うるさい(評判になって面倒な)ことになるだろうかと思って、
御調度ども多くこちたく飾りたてて、人の目を驚かす。(栄花物語)
【訳】ご調度品を数多く大げさに飾り立てて、人の目を驚かす。
📝 練習問題
傍線部の「こちたし」の現代語訳として最も適切なものを選んでください。
1. 人の言の繁ければ、逢ふこともこちたし。(古今和歌集)
解説:
「人の言の繁ければ(人の噂がうるさいので)」という理由から、「逢ふことも(会うことも)うるさくて気がひける」という意味になります。「言痛し」の典型的な用法です。
2. 梅の花、枝もあらにこちたく咲き乱れたり。(源氏物語)
解説:
梅の花が「枝もあらわに(見えるほど)」たくさん、大げさなほどに咲き乱れている様子を表します。「事痛し」の「甚だしい・多い」の意味です。
3. この歌は、心は深けれど、詞すこしこちたしと人のそしるもあり。(俊頼髄脳)
解説:
和歌の評価の文脈で、「詞(言葉遣い)」が「こちたし」と言われています。この場合、「無骨だ」「ごつごつしていて風情がない」という意味で使われます。
4. 女君の御名、世に隠れなし。あまりにこちたく聞こゆれば、帝も心動き給ふ。(源氏物語より改変)
解説:
姫君の名前が世間に広く知れ渡っている(隠れなし)状況で、「あまりにこちたく聞こゆれば」とあります。これは評判が「大げさに」「非常に高く」聞こえてくる、という意味です。
5. 装束の色合ひ、いとこちたくて、目もあやなり。(宇津保物語)
解説:
装束の色合いが「目もあやなり(目がくらむほどだ)」と続くことから、非常に「仰々しくて派手で」ある様子がうかがえます。「事痛し」の「大げさだ」の意味合いです。