「人目を『忍び』て逢う恋も、故人を『偲び』て流す涙も、秘めたる心の深さを映す」
📖 意味と用法
しのぶ は、文脈によって「忍ぶ」と「偲ぶ」の漢字が当てられ、活用の種類も意味も異なる重要な古文単語です。正確な読解のためには、これらの区別が不可欠です。
- 【忍ぶ】(バ行上二段活用:しのび・しのび・しのぶ・しのぶる・しのぶれ・しのびよ)
- 我慢する、こらえる(感情・苦痛などを): 内に湧き上がる感情や苦痛などを表に出さず、じっと堪える様子。
例:涙をしのびてものも言はず。(涙をこらえて何も言わない。)
- 人目を避ける、隠れる、秘密にする: 他人に知られないように行動したり、何かを隠したりする様子。
例:人目をしのびて夜中に参る。(人目を避けて夜中に参詣する。)
- 我慢する、こらえる(感情・苦痛などを): 内に湧き上がる感情や苦痛などを表に出さず、じっと堪える様子。
- 【偲ぶ】(バ行四段活用:しのば・しのび・しのぶ・しのぶ・しのべ・しのべ)
- 思い慕う、懐かしむ(過去の人や事物を): 過ぎ去った人や時代、場所などを懐かしく思い出したり、恋しく思ったりする心情。
例:古(いにしへ)をしのぶよすがとぞなる。(昔を思い慕う手がかりとなる。)
- 賞美する、称賛する(景物や人の美点などを): 美しい景色や優れた人物などを心の中で味わい、その良さを思うこと。
例:月の光りをしのびて歌を詠む。(月の光の美しさを賞美して歌を詠む。)
- 思い慕う、懐かしむ(過去の人や事物を): 過ぎ去った人や時代、場所などを懐かしく思い出したり、恋しく思ったりする心情。
「しのぶ」という言葉が出てきたら、まず文脈から「忍ぶ」か「偲ぶ」か、そして活用の種類(上二段か四段か)を判断し、適切な意味を捉えることが重要です。
忍ぶ (我慢する) の例
堪えがたきをしのぶを、忍と謂ふ。(徒然草)
(堪えがたいことを我慢するのを、忍耐と言う。)
忍ぶ (人目を避ける) の例
しのびて物詣でする人。(枕草子)
(人目を忍んで寺社に参詣する人。)
偲ぶ (思い慕う) の例
亡き人をしのぶよすがともなるべきもの。(源氏物語)
(亡き人を思い慕うよすが(手がかり)ともなるべきもの。)
🕰️ 語源と歴史
「しのぶ」の語源は、その意味合いによって異なります。
「忍ぶ」は、元来、外部からの力に耐えたり、身を隠したりする身体的な動作を指したと考えられます。「シ(強意の接頭語か)」+「ヌブ(隠れる、伏せるの意)」などの構成が考えられ、そこから精神的な苦痛や感情を内に抑えこむ「我慢する」という意味や、他者の視線から逃れる「人目を避ける」という意味に発展しました。
一方、「偲ぶ」は、「シ(強意の接頭語か)」+「ノブ(思う、心がなびくの意)」といった構成が考えられ、心が強く対象に向かっていく、思いを馳せるという精神的な働きを表します。ここから、遠く離れた人や過ぎ去った時を懐かしく思う「思い慕う」や、美しいものや優れたものを心に留めて味わう「賞美する」といった意味が生じました。
このように、同じ「しのぶ」という音でも、その背景にある意味の成り立ちと、それに応じた活用の違い(上二段と四段)を理解することが大切です。
📝 活用形と派生語
「忍ぶ」の活用(バ行上二段活用)
活用形 | 語幹 | 語形 |
---|---|---|
未然形 | しの | び |
連用形 | び | |
終止形 | ぶ | |
連体形 | ぶる | |
已然形 | ぶれ | |
命令形 | びよ |
「偲ぶ」の活用(バ行四段活用)
活用形 | 語幹 | 語形 |
---|---|---|
未然形 | しの | ば |
連用形 | び | |
終止形 | ぶ | |
連体形 | ぶ | |
已然形 | べ | |
命令形 | べ |
派生語
- しのび(忍び・偲び) (名詞) – 人目を避けること、秘密、我慢すること、思い慕うこと
例:しのびの道(人目を忍んで通う道)
- しのびやか(なり) (形容動詞) – ひそやかなさま、こっそりとしたさま
例:しのびやかに語らふ。(ひそやかに語り合う。)
🔄 類義語
我慢する・こらえる
人目を避ける・隠れる
思い慕う・懐かしむ
↔️ 反対の概念
「しのぶ」が持つ意味合いによって、対照的な言葉が異なります。
「我慢する」に対して:
「人目を避ける」に対して:
「思い慕う」に対して:
🗣️ 実践的な例文(古文)
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
― 色は見えねど香やは隠るる梅の花昔の袖の香ぞしのばるる。(古今和歌集)
【訳】月は(昔の月と)同じではないのだろうか、春は昔の春ではないのだろうか、私自身だけはもとのままの身であって。/(梅の花は)色は見えないけれども香りは隠れるだろうか、いや隠れはしない。昔の(あなたの着物の)袖の香りが自然と思い出されることだ。
人目も草もかれぬる霜の道をしのびて通ふ所ありけり。(伊勢物語)
【訳】人の目も草も枯れてしまう霜の道を、人目を避けて通う所があった。
今はとて寝る夜の涙雨と降るを思ひしのぶる今日の日の暮れぬる。(源氏物語)
【訳】(これが最後かと思って)寝る夜の涙が雨のように降るのを思い、じっとこらえている今日の日の暮れてしまったことよ。
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる
― かくめでたき香をしのばぬ人やはあらむ。(古今和歌集)
【訳】春の夜の闇はわけがわからない。(闇のせいで)梅の花の色は見えないけれど、その良い香りは隠れるだろうか、いや隠れはしない。/このようにすばらしい香りを賞美しない人がいるだろうか、いやいないだろう。
故郷の母をしのびて、文を書き送る。(更級日記)
【訳】故郷の母を思い慕って、手紙を書いて送る。
📝 練習問題
傍線部の「しのぶ」の活用の種類と現代語訳として最も適切なものを選んでください。
1. 物を言はむとすれば、涙せき上げてしのびもあへず。(蜻蛉日記)
解説:
「涙せき上げて」とあるので、涙を「こらえる」意の「忍ぶ」(上二段活用)です。「~もあへず」は「~しきることもできない」なので、「こらえることもできず」となります。
2. 月の影をしのぶる人の袂かな。(源氏物語)
解説:
月の光景を心に留めて味わい、懐かしむ(思い慕う・賞美する)人の涙で濡れた袂、という美しい情景です。「偲ぶ」(四段活用)が適切です。
3. 夜隠れに出でて、人の家の垣間よりしのびて見れば、(堤中納言物語)
解説:
「夜隠れに出でて」「垣間より」という状況から、人に見つからないように「人目を避けて」覗き見ていることがわかります。「忍ぶ」(上二段活用)です。
4. 亡き御子の面影をしのばせ給ふ。(源氏物語)
解説:
亡くなった御子の面影を「思い慕いなさる」という意味です。「偲ぶ」(四段活用)に尊敬の助動詞「す」と補助動詞「給ふ」が付いています。
5. 秋の野の露に濡れつつ鳴く虫の音ぞ秋をしのぶる涙なりける。(古今和歌集)
解説:
秋の野で鳴く虫の音が、過ぎゆく秋を「思い慕わせる(しみじみと感じさせる)」涙である、という意味です。「偲ぶ」(四段活用)の連体形が使われています。