「高貴な人が身分を隠すために『やつし』、また、世の無常を感じて『やつす』。その姿は違えど、世間から身を隠す心は同じです」
📖 意味と用法
やつすは、サ行四段活用の動詞で、意図的に自分の外見を変え、本来の姿とは違う状態になることを表します。特に、身分や華やかさを隠す方向に変化する場合に使われます。
- 姿をみすぼらしくする、目立たなくする、質素にする: 人目を忍んだり、身分を隠したりするために、わざと粗末な服装や姿になること。「姿を変える」「変装する」のニュアンスです。
- 出家する: 髪を剃り、墨染めの衣を着て僧の姿になること。これも姿を大きく変え、俗世から離れるという意味で「やつす」の重要な用法です。
文脈から、単なる「変装」なのか、それとも「出家」という決定的な身の変化なのかを見極めることが重要です。
🕰️ 語源と歴史
「やつす」は、「やつる(窶る)」と語源を同じくします。「やつる」は、病気や心労で痩せ衰える、みすぼらしくなるという自動詞です。これに対し、「やつす」は、他動詞として「意図的にみすぼらしい姿にする」という意味で使われるようになりました。本来の華やかさや身分を「殺す(消す)」というニュアンスから来ています。
📝 活用形と派生語
「やつす」の活用(サ行四段活用)
活用形 | 語形 |
---|---|
未然形 | やつさ |
連用形 | やつし |
終止形 | やつす |
連体形 | やつす |
已然形 | やつせ |
命令形 | やつせ |
派生語
- やつれ (名詞) – みすぼらしくなること、出家姿。
深きやつれをしたり
🔄 類義語
↔️ 反対の概念
「飾り立てる」「本来の姿でいる」といった言葉が対照的です。
🗣️ 実践的な例文(古文)
いと黒うやつして、人にも見え給はず。(源氏物語)
【訳】ひどくみすぼらしい姿になって、人にもお会いにならない。
御髪おろし給ひて、御衣も黒くやつし給へり。(平家物語)
【訳】ご剃髪なさって、お召し物も黒く出家姿になられた。
かかる賤の姿に身をやつせども、心は錦なり。(古今著聞集)
【訳】このような卑しい姿に身を変えているけれども、心は錦(のように高貴)である。
尼になりて、世を背き果てむと思へど、なほ美しきをやつす。(堤中納言物語)
【訳】尼になって、すっかり俗世を捨てようと思うけれど、やはり美しい姿をわざと質素にする。
深き山に入りてやつしてこそ、仏の道を求めめ。(発心集)
【訳】深い山に入って出家してこそ、仏の道を求めるべきだ。
📝 練習問題
傍線部の「やつす」の現代語訳として最も適切なものを選んでください。
1. 高貴なる人の、わざとやつして歩く。
解説:
高貴な人が身分を隠すために「わざとみすぼらしい姿になって」歩いている、という文脈です。
2. 世のはかなきを嘆き、つひにやつしけり。
解説:
世のはかなさを嘆いた末の行動として最も考えられるのは「出家」です。「つひに(とうとう)」という言葉も決意の固さを示唆します。
3. 人知れず忍びて、やつしたる姿にてぞ通ひける。
解説:
「人知れず忍びて」とあることから、人目を避けるために「目立たないようにした」姿で通っていたことがわかります。
4. もとの光を隠し、塵に交はらむとて、身をやつすなり。
解説:
本来の輝き(身分)を隠して、俗世間に交わろうとするために、身なりを「質素にする」と解釈します。「和光同塵」という仏教思想に関連する表現です。
5. かくやつしても、隠れなき気高さあり。
解説:
「このように粗末な姿になっても」隠しきれない気品がある、という文脈です。内面からにじみ出る高貴さを強調しています。