「長雨で気分が『ものし』と感じるように、この言葉ははっきりしない不快さや気になる気持ちを表します」
📖 意味と用法
ものし は、ク活用の形容詞で、主に漠然とした不快感や不安を表す古文単語です。具体的な原因や対象を明示せず、なんとなくそう感じられる状態を指します。また、動詞「ものす(物す)」の連体形として、特定の動作や状態をぼかして表現する際にも用いられます。
- 【不快・嫌悪】なんとなく不快だ、いやだ、気に食わない: はっきりとした理由はないが、なんとなく気分が晴れない、不愉快であるさま。
- 【不安・懸念】なんとなく気になる、不安だ、心配だ: 何か悪いことが起こりそうな予感がしたり、心が落ち着かなかったりするさま。
- 【婉曲表現】(動詞「ものす」の連体形として)~である、~する、~な感じの: 具体的な言葉で表現するのを避けたい場合や、改まって言う場合に、「ものす」の連体形「ものし」+体言(多くは省略)の形で、ある状態や行為を婉曲に示します。この用法は文脈からの判断が特に重要です。
「ものし」が形容詞として使われる場合は、その「なんとなく」という漠然とした感情がどのような種類のものか(不快感なのか不安感なのか)を捉えることが大切です。動詞の連体形の場合は、前後の文脈から何を指しているかを推測する必要があります。
不快・嫌悪の例
常よりもものしき御気色なり。(源氏物語)
(いつもよりもなんとなくご不快なご様子である。)
不安・懸念の例
ただならずものしければ、尋ぬるに、(蜻蛉日記)
(普通ではなくなんとなく不安だったので、尋ねると、)
婉曲表現の例
かくものし給ふ御文を、(枕草子)
(このように(何かを)お書きになるお手紙を。)※文脈で「お書きになる」などが補われる
🕰️ 語源と歴史
「ものし」の語源は、代名詞「物(もの)」に形容詞を作る接尾語「し」が付いたものと考えられています。「物」が漠然と何かを指すことから、「ものし」もはっきりしない感情や状態を表すようになったとされます。
元々は、何か得体の知れないものに対する畏怖や不安、不快感を表していたものが、次第に広義の「なんとなく不快だ」「なんとなく気がかりだ」という意味で用いられるようになりました。
また、動詞「ものす(物す)」は「ある(有り)」「行く(行く)」「言ふ(言ふ)」など、様々な動詞の代わりに使われる婉曲表現ですが、その連体形「ものする」が音変化して「ものし」となり、体言(主に「こと」「けしき」など、あるいは省略)を修飾する形で使われることもあります。この場合、「何かをする」「何かである」といった意味合いになります。
📝 活用形と派生語
「ものし」の活用(形容詞ク活用)
活用形 | 語形 | 接続 |
---|---|---|
未然形 | ものしくあら | ず |
連用形 | ものしく / ものしう | て、なり、他の用言 |
終止形 | ものし | 言い切り |
連体形 | ものしき | 体言、こと、の |
已然形 | ものしけれ | ば、ども |
命令形 | ものしかれ | (会話などで稀) |
※連用形「ものしう」はウ音便化した形です。未然形は「ものしから」の形もとります。
関連語
- ものす (サ変動詞) – (何かを)する、(何かが)ある、(どこかへ)行く、(何かを)言う など、様々な動詞の代わりに用いられる。
文をものせさせ給ふ。(源氏物語)
(お手紙をお書きになる。) - ものしげなり (形容動詞ナリ活用) – なんとなくわけありな様子だ、思わせぶりな様子だ。
ものしげなる気色にて立ち出でぬ。(更級日記)
(なんとなくわけありな様子で出て行った。)
🔄 類義語
なんとなく不快だ・いやだ
なんとなく気になる・不安だ
※「むつかし」はより積極的な不快感や気味悪さ、「うし」はつらくやるせない気持ち、「こころぐるし」は気遣いや同情からくる心の痛みなど、それぞれニュアンスが異なります。
↔️ 反対の概念
「ものし」が漠然とした不快感や不安を表すため、心が晴れやかである、快適である、安心できるといった状態が対極にあると考えられます。
🗣️ 実践的な例文(古文)
雨など降りて、心づくしに思ひ暮らすころ、いとものし。(源氏物語・須磨)
【訳】雨などが降って、あれこれと物思いにふけって一日を過ごす頃は、たいそうなんとなく不快である(気が滅入る)。
何となくものしきを、人々の出で騒ぐに、(蜻蛉日記)
【訳】なんとなく気がかりな(不安な)ところを、人々が出てきて騒ぐので、
いと忍びてものし給ふめる所に、(源氏物語・夕顔)
【訳】たいそう人目を忍んで(いらっしゃる)ような所に、※「ものし給ふ」で「いらっしゃる」の婉曲表現
常はかかる事こそものしけれ、今日はなほ心ことなり。(伊勢物語)
【訳】いつもはこのようなことは(別に何とも思わないが)気に食わないものであるが、今日はやはり格別である。
ただ寝に寝られぬ夜な夜なは、いとものしうて、(枕草子)
【訳】ただもう寝ようとしても寝られない夜々には、たいそうなんとなくつらくて(不快で)、
📝 練習問題
傍線部の「ものし」の現代語訳として最も適切なものを選んでください。
1. 月の隈なきを見て、夜ふくるまで聞こえ給ふが、いとものし。(源氏物語・紅葉賀)
解説:
月が曇りなく照っているのを見て、夜が更けるまで(帝が和歌などを)お詠みになるのが、たいそう「ものし」とあります。ここでは、ずっと続く単調さや、あるいは何らかの理由でその状況が話し手にとって好ましくないニュアンスが考えられます。「なんとなく不快だ」または「なんとなく気がかりだ(退屈だ)」といった意味合いです。
2. 人しげくものし給ふ様なれば、え聞こえず。(源氏物語・空蝉)
解説:
「人しげく(人の気配が多く)」という状況で「ものし給ふ」とあります。これは動詞「ものす」の婉曲表現で、「人が多くて(何かを)していらっしゃる様子なので、よく聞こえない」という意味になります。具体的な動詞をぼかして表現しています。
3. 何となくものしければ、薬も飲まず。(竹取物語)
解説:
「薬も飲まず」と続くことから、体調や気分がすぐれない様子がうかがえます。「なんとなく不快だったので」または「なんとなく気分が悪かったので」という意味が適切です。
4. 今日は宮にさぶらひて、いとものしき心地し侍りつるを。(枕草子)
解説:
宮仕えをしていて「ものしき心地し侍りつるを」とあります。宮仕えの気苦労や、あるいはその日の特定の出来事による不快感、気詰まりなどを表していると考えられます。「なんとなくつらい」や「なんとなく気が重い」といったニュアンスです。
5. 女のはらから、この男の家にものしけるを、(伊勢物語)
解説:
「女の姉妹が、この男の家に(何かを)していたのを」という意味で、動詞「ものす」の連体形「ものし」が使われています。文脈から、男の家に「いた(住んでいた)」または「来ていた」などを婉曲に表現していると考えられます。