「『ゆくりなし』の出会いや別れは、心の準備ができていないからこそ、一層強く記憶に残ります」
📖 意味と用法
ゆくりなしは、ク活用の形容詞で、「思いがけない」「突然である」という意味が中心です。良いことにも悪いことにも使われます。
- 突然だ、思いがけない、予期せぬ: 何の前触れもなく、不意に物事が起こる様子を表します。現代語の「いきなり」「突然」に近いです。
- 軽率だ、不意打ちだ: 深く考えずに行動する様子や、相手の意表を突くような行動を指すこともあります。
文脈から、何が「思いがけない」のかを正確に読み取ることが重要です。
突然だ の例
ゆくりなく風の吹きければ、火、広まりぬ。(徒然草)
(突然、風が吹いたので、火が広まってしまった。)
軽率だ の例
ゆくりなくも、かかることの出で来むとは。(源氏物語)
(軽率にも、このようなことが出てこようとは。)
🕰️ 語源と歴史
「ゆくりなし」の語源は、「ゆっくり」と同じく「ゆくり」という名詞から来ています。この「ゆくり」は「ゆっくりと時間をかけること」を意味し、それに否定の「なし」が付くことで、「時間をかけない」「心の準備をする間もない」といったニュアンスから「突然だ」という意味に発展しました。
現代語の「ゆっくり」とは正反対の意味になるのが興味深い点です。
📝 活用形と派生語
「ゆくりなし」の活用(形容詞ク活用)
活用形 | 語形 |
---|---|
未然形 | ゆくりなく |
連用形 | ゆくりなく |
終止形 | ゆくりなし |
連体形 | ゆくりなき |
已然形 | ゆくりなけれ |
命令形 | (ゆくりなかれ) |
派生語
- ゆくりなさ (名詞) – 突然であること、軽率さ。
🔄 類義語
↔️ 反対の概念
直接的な反対語は少ないですが、「前もって」「かねてから」といった言葉が対照的な概念です。
🗣️ 実践的な例文(古文)
ゆくりなく風の吹きければ、火、広まりぬ。(徒然草)
【訳】突然、風が吹いたので、火が広まってしまった。
ゆくりなきものから、さばかりの人の御ためには、心も動きなむ。(源氏物語)
【訳】軽率な(身分ではない)者ではあるが、あれほどの方のためには、心も動いてしまうでしょう。
ゆくりなく起き出でて、外を見れば、月明らかなり。(更級日記)
【訳】ふと(思いがけず)起き出して、外を見ると、月が明るかった。
ゆくりなく訪ね来る人こそ、げにうれしけれ。(枕草子)
【訳】突然に訪ねてくる人こそ、本当に嬉しいものだ。
ゆくりなき言の葉にて、人の心を傷つけき。(平家物語)
【訳】軽率な言葉で、人の心を傷つけてしまった。
📝 練習問題
傍線部の「ゆくりなし」の現代語訳として最も適切なものを選んでください。
1. ゆくりなくもてなしたる、いとあはれなり。(源氏物語)
解説:
「もてなす」は振る舞う意。文脈上、「思いがけなく(不意に)振る舞ったのが、たいそう趣深い」となります。
2. ゆくりなき死は、人の世の常なり。(徒然草)
解説:
死が「ゆくりなし」であるとは、「突然の死」がこの世の常である、という意味になります。
3. ゆくりなくもて来たる文を見る。(和泉式部日記)
解説:
「不意に」持ってきた手紙を見る、と訳すのが最も自然です。「思いがけず」とほぼ同義です。
4. ゆくりなき心地のみして、暁に帰りぬ。(源氏物語)
解説:
何か予期せぬことがあったのか、「思いがけない」気持ちばかりして、明け方に帰った、という文脈です。
5. ゆくりなき過ちを犯し、深く悔ゆ。(発心集)
解説:
過ちを犯した文脈では、考えが足りなかった「軽率な」過ち、と解釈するのが適切です。