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翻訳者:中務秀典
「おお、これは困ったのう…!」とドリトル先生がつぶやくのを、ぼく(トミー)は聞きました。先生は何とか逃げ道がないかと必死にあたりを見回していました。
「どうしたものかのう…わしのカフスボタンをどこに置いたか、だれか知らんかのう?」と先生が言いました。
「このカラーも、カフスボタンがなければ留められんじゃろう…。まったく、なんという日なんじゃ!」
「バンポよ、もしかしたらベッドの下に転がっておるかもしれん。わしに一日くらい考える猶予をくれてもいいものを…。」と先生はぼやきます。
「まだ顔も洗わんうちに寝ている人間を起こして、“王様になれ”とは、聞いたことがないんじゃがのう…。」
「誰も見つけられんのか? バンポ、もしかしておぬしが立っている上にあるかもしれんぞ。足をどけてみい。」
「先生、そのカフスボタンなんか気にすることないわよ」とポリネシアが言いました。「カラーなしで戴冠されることになる。誰も気づきゃしないってもんよ。」
「わしは戴冠されるなんぞ思わんぞ!」と先生は声を上げました。「できることなら避けたいんじゃ。スピーチでもして、やんわり断るしかないのう…。」
「それで納得してくれればいいんじゃが…」そう言うと先生は、戸口にいるインディアンたちのほうへ向き直りました。
「皆さん、わしは皆さんが与えてくださる大いなる名誉に、決してふさわしい者ではないんじゃ…。」と先生は言いました。
「わしには王の務めに関わる才覚などほとんどないのじゃ。きっと、皆さんの中にはもっと適任の勇敢な方がおられるだろう…。」
「もっとふさわしく皆さんを導ける方が、きっと大勢おる。とはいえ、こんなにお褒めいただき、信頼を寄せてくださることには深く感謝しておるんじゃ。」
「しかし、到底果たせぬような重責を、わしなどに任せんでいただきたいと願います…。」
老人は先生の言葉を背後の人々に向けてさらに大声で繰り返しましたが、彼らは無表情のまま微動だにせず、首を横に振るばかりでした。
老人は再び先生の方へ向き直り、「あなたこそが選ばれし方。彼らはあなた以外を望まぬのです」と告げました。
困り果てた先生の顔に、ふと希望の光が差しました。「ロングアローのもとへ行ってみるんじゃ…」
と先生はぼくにささやいたました。「もしかしたら、この状況を打開する手立てを知っておるかもしれん…。」
先生はそこにいた人々に少し失礼すると告げ、ドアの前に立ち尽くす彼らをそのままにして、急いでロングアローの家へ向かいました。
ぼくも先生の後を追いかけました。
家の外の草の寝床には、ぼくらの大きな友人(ロングアロー)が横たわっていました。祭りの様子を見られるよう、そこに移されていたのです。
先生は鷲の言葉で手短に話しかけ、周囲の人々に聞かれぬよう配慮しながら言いました。「ロングアローよ、わしは今、重大な危機に陥っておる。助力を求めに来たんじゃ…。」
「彼らはわしを王に据えようとしておる。もしそんなことが起これば、わしが成そうと思っていた偉大な計画はすべて手つかずになってしまう…。」
王ほど不自由な立場はないのじゃ。どうかわしの代わりに、彼らに話をしてくれんか…。
そして、その善意ある心をうまく説得して、今の計画は得策ではないと伝えてほしいんじゃ。」ロングアローは肘をついて上体を起こしました。
「おお、親切なるお方よ」と彼は言いました(どうやら先生をお呼びする際の定型句のようでした)。
「あなたが初めてわたしに願いを告げてくださったというのに、実に残念なことに、わたしはそれをかなえられぬのです。」
ああ、どうにもなりません。彼らはあなたを王として迎えることに固く決めており、もしわたしが口を挟めば、
きっとこの地からわたしを追い出し、いずれにせよあなたを戴冠させるでしょう。
「ですから、しばらくの間だけでもあなたは王にならねばなりません。あなたが政務を行うにあたって、うまく取り決めをし、
あなたが自然の秘密に捧げる時間を持てるようにするのです。のちには王位の重荷から解放する策を見いだせるかもしれません。
「しかし今は、王になるよりほかありません。彼らはとても頑固な部族ゆえ、
自分たちの思い通りに進めるまで決して譲りません。ほかの手立てはないのです。」
先生は悲しげに寝床から視線をそらし、くるりと振り向きました。すると、またあの老人が後ろに立っていました。
しわだらけの手に王冠を携え、肘のそばには王の輿が用意されています。
担ぎ手たちは深々と礼をしながら椅子の座面を示し、先生に乗るよう促しました。
再び気の毒な先生は、どうにか逃げる術はないかと必死にあたりを見回しました。ぼくは一瞬、
先生が一目散に逃げ出して、さらに走り出すんじゃないかと思ったのですが、周囲の人だかりがあまりにも多く、
誰ひとりが押しのけて通り抜けることなどできないほどぎっしりしていたのです。その近くではホイッスルと太鼓の楽隊が
突然荘厳な行進曲を演奏し始めました。先生はもう一度懇願するようにロングアローの方へ振り返りましたが、
それは最後の頼みの綱でした。しかし、大柄なインディアンはただ首を横に振って、担ぎ手たちと同じように指を差すだけでした。
それは待ち受ける輿でした。ついに先生は、ほとんど泣きそうになりながら、ゆっくりとその輿に乗り込み、
腰を下ろしました。担ぎ手たちのたくましい肩に持ち上げられながらも、先生はまだかすかにつぶやいているのが、ぼくには聞こえました。
「こんな厄介ごと、まっぴらなんじゃ…! わしは王様になどなりとうない…!」
「さらばだ!」と寝床からロングアローが呼びかけます。「どうか幸運が、あなたの玉座の影に留まるように!」
「来たぞ、来たぞ!」と群衆はつぶやいた。 「行こう、行こう、ささやく岩へ!」
こうして行列が村を出発するために整列すると、周囲の人々は山のほうへ急ぎ足で向かい始めました。
戴冠式が行われる巨大な野外劇場で、いい席を確保するためだったのです。